現在の太鼓台
忠臣蔵主要人物
野出町太鼓台
 
吉良邸討入り
 
 表門 裏門
戦闘司令部 作戦本部
 司令官   大石内蔵助(武器 十文字槍)
 参謀長   原惣右衛門(武器 十文字槍)
 作戦参謀  間瀬久大夫(武器 鍵槍)


 副司令官 吉田忠左衛門(武器 鍵槍)
 作戦参謀 小野寺十内(武器 鍵槍)
 作戦参謀 間喜兵衛(武器 十文字槍)


表門・新門守備警戒班  屋内突入班
 堀部弥兵衛(武器 素槍)
 村松喜兵衛(武器 鍵槍)
 岡野金右衛門(武器 十文字槍)
 横川勘平(武器 刀)
 貝賀弥左衛門(武器 手槍)






 磯貝十郎左衛門(武器 鍵槍)
 堀部安兵衛(武器 大太刀)
 倉橋伝助(武器 刀)
 杉野十兵次(武器 掛矢・刀)
 赤埴源蔵(武器 刀)
 菅谷半之丞(武器 刀)
 大石瀬左衛門(武器 斧・刀)
 村松三太夫(武器 素槍)
 三村次郎左衛門(武器 掛矢・刀)
 寺坂吉右衛門(武器 刀)


 屋内突入班  屋外警戒班
 片岡源五右衛門(武器 十文字槍)
 藤森助右衛門(武器 十文字槍)
 武林唯七(武器 大身槍)
 奥田孫太夫(武器 長巻)
 矢田五郎右衛門(武器 刀)
 勝田新左衛門(武器 素槍)
 吉田沢右衛門(武器 刀)
 岡嶋八十右衛門(武器 刀)
 小野寺幸右衛門(武器 刀)



 部隊長 大石主税(武器 十文字槍)
 潮田又之丞(武器 鍵槍)
 中村勘助(武器 十文字槍)
 奥田貞右衛門(武器 馬巻)
 間瀬孫九郎(武器 十文字槍)
 千場三郎兵衛(武器 半弓)
 茅野和助(武器 半弓)
 間新六(武器 半弓)
 木村岡右衛門(武器 鍵槍)
 不破数右衛門(武器 鍵槍)
 前原伊助(武器 斧・刀))

 屋外警戒班  
 早水藤左衛門(武器 弓)
 神崎与五郎(武器 半弓)
 矢頭右衛門七(武器 鍵槍)
 大高源五(武器 長巻)
 近松勘六(武器 刀)
 間十次郎(武器 十文字槍)


 


  
浅野方(主要人物)
浅野内匠頭長矩(あさのたくみのかみながのり)
  内匠頭長矩は、寛文七年(一六六七年)江戸で生まれたが、家例に従って幼名を又一郎と称し た。延宝三年(一六七五)年父采女長友を失ったので、わずか九歳で赤穂五万石を襲封した。寛 文八年には祖父と同じ官名の従五位下内匠頭を任ぜられ、元禄十四年に切腹するまで、治政二六年に及んだ。

 長矩は、小さい頃から文武の道を励み、十八の時には、弟の大学とともに山鹿素行の門に入り 、兵学の勉強に努めている。そして書は肥後の北島雪山に学び、絵は狩野派に巧みであり、雅号 を「梅谷」と称した。茶も石州流をたしなみ、和歌にも堪能であった。

 長矩は、元禄十四年三月十四日、江戸城松の廊下で吉良上野介の刀傷事件を起こしている。何故、事件を起こしたかというのはテレビでも放送され有名だと思われる。原因として、長矩の妻 阿久理への横恋慕、賄賂、上野介の虚偽の指導等いろいろあると思わる。

 上野介の刀傷事件後、五代将軍綱吉は長矩に田村右京大夫邸にて切腹を命じ、即日、切腹す ることになる。その後、四月十九日に赤穂城を開城することになる。



大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)
 大石家は三代続いて赤穂藩の家老を務める家柄である。良雄は十五歳のときに父親と死別し、 四年後、祖父の家督を相続した。剣術を奥村無我、儒学を伊藤仁斎、軍学を山鹿素行に学び、 温厚で物事にあくせくしない性格であったと伝えられる。改易時には、浅野大学(浅野内匠頭の 弟)をたてて主家再興を図る方針で家中をまとめ、開城した。元禄十四年六月には京・山科に移 り住み、再興運動を進めた。元禄十五年七月、再興の望みが絶えると、いよいよ復仇の覚悟を 固めた。同士を集め十一月五日に江戸に入って周到な準備を進め、十二月十五日、吉良邸に討入をする。

 冷静沈着、人間的な大きさを持つ人物として今日でも親しまれている。


 
大石主税良金(おおいしちからよしかね)
 幼名を松之丞といい。大石内蔵助の嫡男で、改易当時は部屋住みの身であった。身長は五尺 七寸あり、大柄で大人びて見えたという。赤穂城開城の後、父に先立って大坂に移り、まもなく 京・山科で父内蔵助と合流をした。主税が元服したのは、内蔵助が最初の江戸下向から帰省し た直後の元禄十四年十二月十五日で、以後、同士として父を助けて活動するようになる。 元禄十五年十月十九日、江戸の急進派を引き留めるため、父に先立って江戸に入り本石町三 丁目小山弥兵衛の裏店に垣見左内の変名で住み、江戸の浪士をまとめた。吉良邸討入時には、裏門の屋外警戒班として参加しているが、実質的には、裏門を固めるの部隊長である。


武林唯七隆重(たけばやしただしちたかしげ)
  元浜奉行渡辺平右衛門の次男にうまれ、父とは別に召し出された新参の家臣である。渡辺性 から武林性に変わった理由もはっきりしない。改易時には独身で、江戸勤番中であった。いった ん、赤穂に戻ったともいうが、夏頃には江戸にあって急進派とともに活動していた。元禄十五年 三月、上京して上方の同士の説得に当たった。八月二十五日、江戸に戻った。その後は本所 徳右衛門町一丁目の杉野十平次宅に渡辺七郎右衛門の変名で住み、吉良家の動静を探った 。吉良邸討入時には、表門から邸内に突入して吉良左兵衛義周と奮闘した。


 
間十次郎光興(はざまじゅうじろうみつおき)
  間喜兵衛光延(浅野家臣)の嫡男で改易時には部屋住みの身であったが、江戸に滞在していたとも伝えられる。赤穂城開城後は、父とともに一家で赤穂に住み機会を待ったという。十次郎 が赤穂を離れるのは、浅野大学の処分が決まり、復仇が本格化した元禄十五年夏以降である。 九月七日、父親より前に江戸に入り、麹町四丁目裏町七郎右衛門店に住んだ。討入には表門 から突入をし、南の長屋に向かい、小林平八郎や上杉家の付き人が、討入していることを米沢十五万石の上杉綱憲に報告しないように口封じに行った。その後、炭小屋に潜む吉良上野介に一槍つけ死後、その首を落としたのが十次郎である。



堀部安兵衛武庸(ほりべやすべいたけつね)
  越後の浪人中山弥次右衛門の子に生まれ、堀部弥兵衛金丸の婿養子になった。奥田孫太夫 とは堀内源左衛門道場で親しい間柄である。改易後、江戸で同士を集めたが思うようにならず、 元禄十四年四月五日に籠城の覚悟で赤穂に発った。五月十二日に江戸へ到着。その後も復仇 の即時決行を主張したため、大石内蔵助とは慰撫に苦心する場面も見られた。元禄十五年六月 十二日、上方の同士を糾合するため、江戸を発った。京・円山会議に出席。八月十日、江戸に 帰省し、本所林町五丁目紀伊国屋店に移し、復仇の準備を進めた。討入時には、邸内に突入を して奮闘をした。


 
  
 吉良方(主要人物)
吉良上野介義央(きらこうずけのすけよしたか)
  吉良氏は、清和源氏の足利義康の後裔である。

 義央は、父義冬と酒井紀伊守忠吉の娘である母との間に、寛永十八年(一六四一年)江戸鍛 冶橋の屋敷で生まれた。十三才のときに初めて四代将軍家綱に謁見し、十七歳の時には従四 位下侍従に任じられ、万治二年(一六五九年)から、有職故実を専門に幕府に仕えた。

 二十二 歳の時、仙洞御所造営に関し将軍の名代として朝廷にお使いをしたのを皮切りに、年賀のお使 いに十五回、その他お使いとして九回も京都を上り、そのつど御所に参内して天皇に拝謁して いる。そして、二十三歳の頃には、従四位上に叙せられ、二十八歳の時に義冬が亡くなったの で高家を継ぎ、侍従兼上野介に任じられ、四十歳で左近衛権少将に進んでいる。また、領地も 三千二百石から四千二百石になっている。このように、十九歳から六十歳までお役御免を願い 出るまで、四十二年にわたって高家筆頭職をしてきた。

 吉良家には、大名家の親戚筋が多く、米沢15万石の大名上杉綱憲は、義央の実の子であり、 義央の子とされる吉良左兵衛義周(きらさえいよしちか)は、綱憲の子であり、義央の孫である。 吉良邸討入時には、義央は隠居して、義周が家督を継いでいる。

 討入時には、間十次郎に発見され、十文字槍で一突きされる。



小林平八郎(こばやしへいはちろう)
 上杉家の付け人として、吉良家に仕える。討入の際は、平八郎を剣豪としてマークしていたそう である。平八郎が南の長屋から出てくるときに、表門の屋外警戒班の矢頭右衛門七、近松勘六、 神崎与五郎の三人と対峙することになる。まず、右衛門七を跳ね飛ばし、近松勘六、神崎与五郎 の二人と奮闘した末、倒れたといわれている。



清水一学(一角または逸学)
 吉良の領地・三州横須賀村出身で、十五歳のときに上野介に召し出され、籠愛されて中小性に なった。討入の際、堀部安兵衛に討たれ、二十四歳で命を落とすことになる。