各地の太鼓台に乗り、太鼓を叩く人達又は子供達の衣装には、各地独特の衣装がありますが、佐野夏祭りに担ぐ太鼓台に乗り、太鼓を叩く子供の衣装も綺麗で美しいものです。
子供の正面には、家紋入りの腹掛け(昔は金糸で刺繍をしていたが、今は染め抜きが多い)をあて、腕には手甲を巻き、腰には化粧回し(金糸、銀糸で竹に虎や、牡丹に唐獅子、龍、富士に鷹等が刺繍してある。今は、家紋に名前入りが多い)を締めて、背中には綺麗な着物の反物を広げ付け下げる。昔は、宵宮の日に10本下げると、本宮の日には1本増やし、又、前日より色や柄を変えて付け下げて、一年毎に本数を増やしていく。太鼓台を担ぎ上げても、付け下げた反物が地面をこするぐらい長く付け下げた。今は短く本数も少ない。
その結びを隠すために錦織の美しい帯を結び(叶結び)を背に垂らす。顔に化粧をしてもらい、家紋入りの鉢巻を結び、町内の青年団(乗り子係)の肩に乗り太鼓台へ行く。乗り子は主に小学生の高学年が多いが小学1年生から乗る子供もいる。
乗り子係は、町内の寄り合いで決められていて、昔から乗り子が地面に足をつけてはいけない決まりがあり、乗り子宅から太鼓台まで乗り子を肩車をする。太鼓台の5段の布団は神様が鎮座するためとも言われているため、乗り子は神職に見立てているものと思われる。
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野出町の乗り子時代 著者 長滝谷 敏雄(野出町若頭会) |
私が乗り子をしていた頃の話である。
夏休み前の夜、野出町会館は賑やかであった。駄菓子屋にもよく行ったものである。鉛筆やノート、アイスやカレーせんべい。50円の わんぱくラーメンをよく買って食べていたことを覚えている。後味が少しピリッときて美味かったものである。
夏休み前の休日、ダンバラの竹やぶ(現在は無い)に笹を取りに行き、7月23日・24日分の2日分の笹を用意した。祝儀袋を買ってきて、その中に1円玉や5円玉入れて1つ1つ笹に取り付けていった。この頃から、祭が来たんだなあと子供心に思っていた。
祭り前、青年団の人が7月23日・24日の若宮町会館2Fでの太鼓台休憩時に食事をするメニューを聞きに来て頂いていた。当時の太鼓台休憩は若宮町会館でしていた。私は、いつも、オムライスとカレーと言っていたことを覚えている。
祭り当日、午前中から慌しくなる。体操着を着て美容院へ行き、時間をかけて丁寧に化粧をして頂いていた。美容室の外では、子供太鼓台の太鼓の音がよく聞こえていた。春日町の子供太鼓台だったのかなあ?
化粧して頂いた後、、家へ帰り、母に時間をかけて衣装を着せて頂き、その際に喉が渇いても、口紅が落ちてはいけないとストローで飲み物を飲んでいた。時間がくると青年団(乗り子係)2人に家に来て頂いていた。太鼓台の乗り子は、太鼓台の乗り降り時は道を歩いてはいけない。地面に触れてはいけなかった。一人は私を肩車をして、もう一人は衣装の後ろを持って片手で笹を持って、当時の野出町会館へ向った。当時の太鼓台出発時間は、宵宮が正午。本宮は午前11時50分(宮入順で午前11時30分)もあった。
ところで、私が着ていた衣装は京都市大宮の呉服屋で仕立てたもので、私自身も子供の頃に呉服屋へ何度か行ったことがあった。 前掛けは祖父譲りのものを付けていた。
太鼓台に乗るとき、祝儀袋をつけた笹を布団締めに引っ掛けて取り付けられた。会館前から太鼓台が出発。快晴でセミが鳴いて暑い。「ドン。ドン。ドンドンドン。」と太鼓を叩いて静かに野出町内を曳行。宵宮は海岸通りをぐるっと回り、本宮は本通りを曳行されていた記憶がある。若宮郵便局に到着して休憩(担ぎ棒を取付け)してジュースを飲みながら、青年団の人達、乗り子同士とたわいもない話をしていたと思う。
休憩が終わり、担ぎ出し。「石山の 秋の月・・・」と大きな声で歌っている。今では青年団も唄っていいるが、この頃、唄っていたのは乗り子だけであった。だから、当時はどこの町の乗り子の声が大きくて、あの町の乗り子の声が小さいというようによく比べられたものであった。今でも同じであるが担ぎっぷりも比べられた。
太鼓台の担ぎっぷりは荒々しかった。担ぎ出しをして隣の店で太鼓台が落ちたこともあった。今では無いが、それが当時の祭りの特色であった。逆に全く太鼓台を落とさないこともあった。波のように太鼓台が揺れて前へ進み、フワ~フワ~っと浮き上がるような感覚は気持ちが良かったものである。落ちる時は、片手で四本柱を掴んでいることもあった。当時の漁師の特色であったと思う。
太鼓を叩き、声がかれるまで囃子を唄い、小休憩時には、のど飴をよくなめていた。昼の運行が終わると、青年団の乗り子係に肩車をして頂き、若宮町会館まで送って頂いていた。宵宮は太鼓台休憩場所から、本宮は春日神社から肩車をして送って頂いていた。そして、若宮町会館2階でクーラーの効いた部屋でテレビを見て食事をしてくつろいでいた。1階では青年団が食事。かなり盛り上がっていた。提灯係は提灯を取付けに行っていた。
夜の運行時間が近づくと、美容院の人が若宮町会館へ来て化粧直しをして頂いた。頭に巻いていた鉢巻も、白と紺の2種類あり、昼の運行時には、白、夜の運行時には、紺と使い分けていた。夜の担ぎっぷりも荒々しさはそのままで、太鼓台はよく落とし、よく担いでいた。
野出町青年団 VS 野出町青年団OBの勝負。青年団は太鼓台の前、青年団OBは太鼓台の後ろを担いで、毎年、何度か勝負をしていた。太鼓台を落とした方が負けである。担ぎ出しから太鼓台が大きく揺れ、また、波のように揺れ、その楽しかったことは今でも脳裏に焼き付いている。野出町青年団側は担ぎ手のローテーションが上手く機能していて、OB側は担ぎ手は少なくとも地肩が強く、双方勝負を譲ることなく担がれていた。
休憩している時でも駅前商店街は地元の見物客で賑わっていた。提灯は赤々と道を照らし、様々な人の話し声、笑い声、これが祭なんだろうなあ・・・と今でも思う。
昔、乗り子をさせて頂いたことは いい経験であり、いい思い出になって脳裏に焼き付いており、私は、人が1度しか書けない人生という小説の1ページに大切にきちんと記してある。
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