佐野祭り考察 後日談  
0歳   著者 長滝谷 敏雄(野出町若頭会) 

祭を執り行っている町、祭に触れていなければ、
祭に興味は持たなかったと思う。

0歳の頃の記憶はないが、年に1度、太鼓台の太鼓の音、太鼓台に触れ、
太鼓台とともに生活をして成長した気がする。

第一小学校へ通学する頃になると、5年間、太鼓台の乗り子を経験する。
前掛けは、祖父譲りのトラ刺繍。
衣装は、京都大宮の呉服屋で仕立てた衣装であった。
何度か、その呉服屋には行ったものである。

佐野中学校へ通学するようになると、法被を5000円で購入した。
当時は群青色の法被で、白字で野出と書いてあった。
祭りの日になると、シャツを着て、パッチを履き、足袋を履いていた。
そして、太鼓台の中の2番棒が、私の指定席のようになっていた。

休憩場所は、当時若宮町会館だった。2階は、乗り子とその保護者、親戚が休憩していた。
1階は、青年団の休憩場所だった。当時は若頭会や若仲会はなく、青年団OBと言われていた。
さて、1階はどうだったかというと、どこの祭りも同じだろう。
私の場合は、無礼講で楽しかったが、さすがに外に逃げた。

夜の太鼓台運行は、想像通りである。
バッテリーや提灯の重さ、・・・・・(カタカナ)で、太鼓台は上がらなかった。
乗り子はヨーイヤセの連呼だった。
私は、「太鼓台ってこんなけも重たかったっけ!」とビックリしていた。
腰が全く入らず海老になっていた。肩を入れた皆もそうだった。

しかし、時間が過ぎると、徐々にローテーションがうまくいくようになり、
最後の内原時計店まで来ると、凄い勢いだった。

今では、取締りや保険等で弊害はあるが、当時は太鼓台が落ちようとするなら、
なりふり構わず、必ず、誰かが担き棒に下から腕を入れて太鼓台を浮かしていた。
そして、誰かが必ずローテーションに加わり、素早く入れ替わっていた。
中には見物されていた人も混じっていた。
運行予定時間は既にオーバーしていたが、
泣きの1回
で午後9時半過ぎまで内原時計店で担いでいたこともあった。
担ぎ手、そして、見物客が意気が合って一体となっていた。
祭りって、こんなに楽しいとは・・・。

佐野の人は、太鼓台の太鼓の音を聞くと、血が騒ぐ人が多い。
私もそうである。
根っからの祭り好きだから。 





  
野出町太鼓台   著者 長滝谷 敏雄(野出町若頭会)
  実話である。

 昭和63年7月24日(本宮)午後9時過ぎの野出町太鼓台。この頃の勢いは凄かった。内原時計店前で今年最後の練り。最後だから、みんなが野出町太鼓台を担ぐ。見物客の一部も加担していた。青年団、見物客等の担ぎ手のローテーションが暗黙の了解でうまく機能していた。

 房が不規則によく揺れ、布団屋根が大きく揺れる。差し上げも美しく決まっていた。肩への負担はかなり大きい。しかし、いっこうに太鼓台を落とす気配が無い。そろそろ太鼓台を落とさんとあかんと当時の役員は思ったんだろう。「シコれ~」と大きな声で言う。その直後、太鼓台が大きく揺れて担ぎ手がヘバってきて太鼓台が落ちそうになった。
 しかし、担ぎ手や見物客は太鼓台が落ちるのを許さなかった。台棒、担ぎ棒の下に腕を入れて落ちないように太鼓台を浮かす。その間に担ぎ手が入れ替わり持ち直した。あの時は凄かった。

 内原時計店から若宮郵便局へ担いで向かう。若宮郵便局でコマをつけて野出町へ帰る。しかし、勢いが衰えてなかった。担いだまま郵便局を通り過ぎ、今度、太鼓台を落としたらコマをつけることになった。大西町の御旅所に来ても勢いはそのまま。「ヨイヨイヨイ」の声で心地よく太鼓台が揺れていた。担ぎ手のローテーションがそのまま機能していた。気づけば笠松付近。

 そこから、浜へ担いだまま下りていく。太鼓台の提灯が赤々と暗い道を照らしていた。周りはシーンとしていた。昔は、野出町まで太鼓台を担いで帰っていた。その体験を、今、自分がしようとしている。むちゃくちゃ嬉しかった。

 浜に近づいたとたん、太鼓台がついに落ちてしまった。ここからコマを付けるのかと思った。しかし、当時の役員は太鼓台倉庫(現在の野出町会館大阪側)まで担ぐ判断をした。警察の目もあっただろう。寛大な判断だった。残りも担ぎきって、無事、太鼓台倉庫に到着。到着時間、深夜11時半頃。

 貴重な体験をさせてもらった。僕にとって、これが最初で最後でもあった。

 今の佐野夏祭りは時代に合わせて徐々に変わりつつある。昔のものを踏襲していくのも大事であるが、これもありかなあと思った。






 
平成18年 野出町太鼓台   著者  長滝谷敏雄(野出町若頭会)
 
実話である。

 平成18年の寄り合い。仕事のこともあり、寄り合いには顔を出したのは3、4日だけだった。7月15日夕方に子供太鼓台を組立てただけである。

 祭前日、会館2階で若頭会の面々が集まって、出前したものを食べながら世間話や祭の話が弾む。一階からは青年団達の声が聞こえてくる。かなり盛り上がっている。

 宵宮。天気が良かった。「ドン、ドン、ドンドンドン」と太鼓台を叩きながら太鼓台が会館を出発。子供達が綱を引っ張る。若宮郵便局に到着。そして、担ぎ出し。勢いが凄かった。UFJ銀行まで一気に進んだ。花柳を過ぎて休憩になる。青年団の提灯係が提灯を取り付ける。その他は、野出町会館で休憩。輪を作って座って、婦人達が準備した食事を美味しく頂きながら、話に花が咲く。一緒に輪を作った人は全て自分より年上だった。祭の話や世間話で話が非常に弾んだ。いつ頃から、年上の人の方が気が合うようになったんかなあ・・・。

 宵宮の夜。初めて、土丸栄線で太鼓台の担ぎ合い。佐野の駅から担ぎ合い場所へ入ると、思ったより見物客が多かった。担ぎ合いが始まり、3町の太鼓台の布団屋根がそれぞれ揺れている。感動ものであった。

 本宮。天気が悪い。小雨が降っている。つばさ通り商店街に入ると土砂降りになり、商店街の中で休憩となる。その時の1番手の宮入が春日町(神輿番)。聞くと宮入を開始したようである。最悪が回避されてホッとする。野出町が宮入りする頃には、雨がほとんど上がっていた。

 本宮休憩。居酒屋で休憩。仕事で佐野を離れて、祭の日に戻ってくる人もいる。そんな、いろんな面々で昔の祭の話をしながら盛り上がる。こういうのは、どこの祭も同じだろう。
 
 本宮夜。駅前商店街の担ぎ合い。道は狭くて危険であるが、太鼓台を一番身近に見れる位置でもある。自分が見物客の立場で見れば、迫力・勢いに酔いしれていたんだろう。最高の祭になって本当に良かった。





 
 平成19年 野出町太鼓台   著者  長滝谷敏雄(野出町若頭会)

  実話である。

 今年の祭りは、7月15・16日。梅雨明け前の祭りである。運悪く、台風が大阪へやって来る。最悪を予想していたが無事に祭りが行われることとなった。しかし、今年も雨が絡む祭りであった。

 7月7日(土)。青空市場で初めての試験担ぎ。時間は午後8時。駐車場2周。その後、休憩を入れて5分間の担ぎ合い。夕暮れの中、午後7時に野出町会館を出発。独特の雰囲気だった。本祭り前なのに祭り気分である。青空市場で3町が集まる。山側から、野出町、新町、春日町の順番に並んでいた。試験担ぎが始まると、どこの町も担ぎっぷりがいい。ノリがいい。野出町に焦点を当てるとしよう。ノリで分かった。今年の野出町太鼓台は、落とさんぞ。担ぎ手のローテーションがうまく機能している。

 宵宮。台風が通り過ぎた後であった。そして、例年になく涼しい。若宮郵便局から担ぎ出しが始まると、勢い、ノリが凄くある。ローテーションがうまく機能している。UFJ銀行前で何回も差し上げをした。3町の担ぎ合いもノリが凄かった。布団屋根がよく揺れていた。 

 本宮。会館出発が例年より1時間早い午前10時30分。宮入は12時から開始。野出町は2番目の宮入りとなった。ここ数年間で一番の宮入だった。晴天で例年よりは涼しい。しかし、これだけではなく、青年団中心の担ぎ手に若頭会の面々も担ぎ手として加わった。それも相まって、房が凄く揺れていた。差し上げも美しく決まっていた。

 本宮休憩。居酒屋で休憩。午後3時半頃。丁度、居酒屋を出ようとしていた頃である。外はバケツをひっくり返したような雨が降っている。急遽、太鼓台を商店街へ非難した。この年は、新町が神輿番。雨で大変だったんだろうと思う。
 
 本宮夜。小雨の中の担ぎ合いとなった。予定より10分早い担ぎ合いとなった。内原時計店前では、担ぎ合いのような勢いだった。最後までローテーションが機能していた。こういうのは、僕の記憶の上では生まれて初めてだろう。

 もし、私が見物客だったら、もう一度、見に行きたいと思っていただろう。また、今年はそう思わせる祭りができた。寄り合いから町内会の楽策までの4週間の祭り。無事に終わって大成功した思う。 





 
 平成21年 差そかい、差そかい、差したろかい   著者  長滝谷敏雄(野出町若頭会)

    まさか、私が仕事でここまで差されるとは・・・。洒落にならないほど仕事が忙しかった。このご時勢、忙しいのはいい事であるが、平日、祭りの寄り合いに一切行けないという非常事態になってしまった。生まれて初めてである。生活する為には仕方がない。しかし、日曜日早朝の野出町御旅所の草むしり(草抜き)はさせて頂いた。

 祭り当日。毎年と同じように太鼓台が会館を出発。そして、若宮郵便局へ到着して、横棒をラチェットで締め、ロープで締め、締まりを良くするためにロープに水をかけ、ロープを手でこすり、水を馴染ます。右回り3回、左回り3回、ロープを回す。それは、青年団がきちんとしている。

 そこまでが、いつもと同じだった。天気はというと、雨が心配だった。若宮郵便局を出発。担き始めである。かなり勢いがあったが、いつもと違った。私が乗り子をしていた頃の勢いだった。あの大房の揺れは凄かった。太鼓台をよーく見ていると、規則的にウェーブ・・・!生まれて初めて見た光景だった。例えば、太鼓台の右前が一番先に揺れて、その次、左前が揺れ、左後ろ、右後ろ、また右前が揺れるという、ウェーブであった。

 あの太鼓台の揺らし方は、おそらく野出町がだろう。実際、肩を入れてみた。そうすると、ウェーブのタイミングが来た。そして、輪の中に入ってウェーブしたが、腰砕けになってしまった。慣れもあると思うが、おっさんとなった私には、この担ぎ方はきつかった。これは、体力がある青年団が成せる技である。

 差し上げの回数も凄く多かった。「差そかい、差そかい、差したろかい」っと唄って差し上げる。私は、残念ながらこの唄については、祭り当日まで知らなかった。あの勢い、担ぎっぷりには見物される方には喜んで頂けたのではないかと思う。

 夜のかき合い。周りを見渡すと、見物される方が昨年よりはるかに多かった。そして、かき合いは今までで1番最高だった。見物されてる方には、野出町の初の試みを見て頂いて喜んで頂けたと思う。私は、当日まで知らなかったが・・・。

 そして、本宮最後。野出町海岸通でコマを外し太鼓台を担ぎ、会館前で幕破り。花火を打ち上げ。青年団・若仲会を中心とした舞い舞い。祭りは面白い。止まらない。止められない。
 
 人生で最高の祭りであった。

 野出町太鼓台。110年間、お疲れさん。そして、思い出ありがとう!





  
 平成21・22年 先代・新調 野出町太鼓台   著者  長滝谷敏雄(野出町若頭会)

 平成21年12月6日。先代太鼓台昇魂式の日である。私が太鼓台に乗っていた思い出。中学生の頃、三番棒や二番棒の中をずっと担いでいた思い出。担ぐ楽しさ、重さを感じた楽しさ、肩が痛くなるまで担いだ思い出。いろいろな思い出が詰まった太鼓台であった。平成15年。痛んでいた布団締めを修理され、生き返った布団締めを眺め、布団締めの刺繍にも目が惹かれるようになった。

 刺繍にしろ、彫り物にしても、太鼓台本体にしても、、製作した人が一番知っているから、私としては客観的にしか書けないが、彫り物裏の墨書きを見たときは衝撃が走った。110年前の墨書きであった。大石内蔵助等の墨書きもあった。私が青年団の頃の金綱(先代太鼓台の3世代前)もあったので見ると、所々傷んでいたが思い出深いものであった。

 提灯も思い出深いものである。昔の提灯は2段。私の乗り子の頃は、長方形の3段。そして、台形の3段(底辺が上)の提灯。提灯の並びに変わりはあれど、赤の下地に白抜きの野出と書かれた提灯は、一番しっくりとくるのである。

 客観的に思い出を振り返ると時代の流れは凄いなあと思う。私が読んだり、聞いたりしたことしか分からないことの方が多いが、佐野の商店街で行われたミスコン、春日神社横の公園のお化け屋敷、馬車に乗ったり、昔は今以上に生活の一部として祭りが存在したようにも思える。もちろん、今も祭りは生活の一部である。

 新調太鼓台。私は見たことしか言えないが、新調にこぎつけるまでの努力は並々ならない努力であった。 新調へ向けて、私も毎月、会館へ行き活動に参加させて頂いた。会館へ行っただけかもしれないし、その場に居ただけかもしれないが、知らないこと、いろいろなことを知ることが出来た。板谷工務店へ向かい、製作途中の新調太鼓台を見学をした。その後の食事は楽しかった。その時に交わしている話は、私にとってほとんど雲の上の話だったが、佐野夏祭りに関わらせて頂いている以上は、このぐらいは知らないと話にならないと思った。

 平成22年5月15日の新調太鼓台入魂式・5月23日のお披露目式。お披露目式の天候は悪かったが、人生で最高であったことは言うまでもない。一回り大きくなった新調太鼓台。これから、私、いや、祭りに参加している皆、次世代の子供(将来の青年団)のいろいろな思い出を刻んでいくことだろう。





 
平成22年 本祭り   著者  長滝谷敏雄(野出町若頭会)
   
 今年の祭りは、夕立はあったが、例年にない晴天だった。毎年、子供太鼓台に同行させて頂いている。根っからの祭り好きが講じてなんだろう。こういう雰囲気が好きなんだろう。時には、子供から寄ってきてくれることもある。
 嬉しい限りである。「石山の~」という子供が威勢いいの声を掛けながら曳行をする。春日神社への宮入りは、威勢があった。子供達の担いでいる子供太鼓台は今になっても脳裏から離れない。

 大人の太鼓台。私が子供の頃からずっと聞いて、言っている言葉である。今でも、「大人の太鼓台の宮入りの時間は何時?」って聞かれることもある。大人の太鼓台というのは佐野界隈の人しか言わないから、何故か親しみを持つし嬉しく思うのである。

 その新調した大人の太鼓台の初年度本祭りである。担ぎっぷりは非常によく、房もよく揺れていた。「ベーラ・・・」の差し上げも非常に良かった。私も、昨年より太鼓台に肩を入れた。忠臣蔵、太閤記の彫り物も映えていた。おそらく、野出町初の四本柱の彫り物。見た目もバランスもいい太鼓台である。

 宮入りや本宮最後の担ぎっぷりは凄かった。総重量が1.3tと重くなっているのを思わせない担ぎっぷりであった。乗り子、担ぎ手の意気が合った結果であるし、みんなが1つになっていた結果だと思う。私が乗り子をしていたころと同じ光景であった。少しではあっても太鼓台新調による経緯を知っているため、ジーンと来るものがあった。また、内原さんまで付き合って頂き御見物された皆様の力もあったんだろうと思う。今年は、昨年とは違い少し賑やかだった。 

 私は見ていただけであるが、寄り合いや本祭り休憩時の提灯の一から配線、提灯のLED取付け、野出町の力だけで出来ているのは凄いなあとつくづく思い知らされた。
 
 三人集まれば文殊の知恵ではないが、野出町関係者それぞれ得意分野の長所が生かされているようにも思えた。さて、私の長所は何だろうか?一応、溶接の免許(期限有)は持っているが・・・。






 平成23年 本祭り   著者  長滝谷敏雄(野出町若頭会)
  
 今年は生活の為、なかなか寄合に出れず、平日は携帯も取れず、連絡の取りようがなかった。こういうのは生まれて初めてである。留守電で、平日は携帯に出れない旨を伝えたり、祭り後ではあるが、携帯に出れなかったことを次の日の朝詫びを入れたりと、人付き合いすら難しくなっていた。

 今年の祭りは、一言でいうとええ祭りであった。宵宮の昼休憩が長いのもあったが、休憩の食事時は世間話が絶えず、常に笑って楽しんでいた。担ぎっぷりは昨年以上の印象があった。


      宵宮

 昼は、約20分間、拍子木をならすまで太鼓台を担いでいた。担ぎあげからずっと撮影をしていた。ビデオカメラの液晶画面から太鼓台の担ぎっぷりを見ていると、それだけで楽しくなった。夜の担ぎ合いは、乗り子が顔を外に向けて囃子を唄っているのが目についた。私が乗り子をしているときも顔を外に向けて囃子を唄っていた。私の場合、太鼓台を落とすなって目で訴えていたところがあった。太鼓台が浮いている感覚は、乗り子にとっては楽しいことである。担ぎっぷりは言うまでもない。


      本宮

 早朝から雨。会館へ行き、子供会の方と少し話をする。雨の為、子供太鼓台が会館で待機しているのである。連絡待ちである。連絡次第では中止も考えられた。雨もそうであるが、濡れた地面での曳行は危険だからである。こういうのは今まで前例がなかった。そして、連絡があり、短縮で曳行することに決定した。毎年同様、子供会に同行する。子供達は祭りを楽しんでいた。

 正午から大人太鼓台の宮入り。土砂降りである。写真撮影は雨粒がくっきりと映るため撮影を中止した。映像撮影も途中中止を考えたが、その場、その時の出来事は過ぎ去ってしまうと1年間待たないといけないし、祭り後の余韻が楽しめない。雨音をしっかり捉えたが、余韻を楽しめそうである。

 神輿渡御は、これぞ漁師の祭りとおもわせる場面がいくつもあった。その内何枚かは外注でL版プリントをしてファイリングをした。

 夜は、担ぎ合いもよかったが、内原さんの最後の担ぎ合いの方がよかった。昔は、佐野駅と内原さんは太鼓台の見せ場でもあった。昔は、神輿番の町は佐野駅へは行けなかった。三和銀行(現 三菱東京UFJ銀行)止まりであった。だから、特別な思い入れがあると思う。内原さんでは、たまらなくなり肩を入れ、青年団以来久しぶりに、乗り子と同じように♪石山の秋の月・・・と唄いながら太鼓台を担いだ。やっぱり佐野の祭りは、どこの祭りより最高に楽しい祭りであった。





 
平成24年 佐野夏祭り   著者  長滝谷敏雄(野出町若頭会)
   
 今年も生活の為、平日に寄合に出れなかった。平日はすぐに携帯に出れず、関係者からの連絡事項による返事も翌日になり、全て一日遅れになっていた。さらに体力的な問題で自分自身を保つのが精いっぱいであった。寄合に行けていないせいか、当日知ったこともたくさんあった。例えば、 試験担ぎのことを知ったのは6月であるが、前日まで集合時間を出発時間だと思っていた。本祭りのパレードのことも運行表程度しか知らず、一体、何をするのか当日まで知らずじまいであった。

 今年の祭りは晴天。夏の日差しが降り注ぎ、夏祭りらしい天気となった。私は、昨年同様で子供会に同行させて頂く。宵宮・本宮、毎年違うところがある。子供の表情であったり、撮影した写真から子供の成長がわかる。ここ昨今。子供を巻き込んだ犯罪が多くなっているのを実感している。交通事故もその一つである。私を含めてかもしれないが、身勝手な大人が増えた。自身の主張するところが常識で、気に入らないことは非常識である。自己中が多いと言ったほうが話は早いだろう。

 昨年。
若頭会の先輩より、撮影のアドバイスを受けた。今年は、今まで撮影をしてこなかった画角をメインで撮影をした。法律上、ネット公開するには相応しくない写真が沢山になったため、今年においてネット公開取り止めも頭によぎった。不謹慎かもしれないが、自分達が一生懸命担いでいるところを収めた写真、自然なところを収めた写真をみんなで見ている方が楽しいものである。どの地域地区の関係者でも、最後にはその答えにたどり着くことでしょう。

 祭り後、毎年、撮影した大人太鼓台の写真を60枚前後に絞って、写真プリントをしてファイリングをしている。そして、祭り後、そのファイリングをした写真を会館へ持っていっているが、今年は、写真という一つのフレームから伝わってくる写真が多いため絞り切れなかった。写真の枚数は昨年の約3倍になった。

 話が逸れてしまった。今年の大人太鼓台。担ぎ方が少し昔に戻っていた。もちろん、私は当日まで知らなかった。しかし、昔に戻ったばかりではなく、時代に合わせて変化をしていた。日中ではあったが、駅前商店街での担ぎ合いは、しばらくぶりであった。四町揃っての担ぎ合いは、土丸栄線を含んでも今年が初めてであった。

 本宮最後の内原での担ぎっぷりが凄かった。太鼓台の前後で昔の青年団vs青年団OBのような雰囲気で担ぎ勝負をしていた。今年の野出町太鼓台の担ぎっぷりは良かったのは、LED提灯の故障がそれを証明をしている。


 今年は、近年にないええ祭りであった。私は外したとしても関係者の皆様お疲れ様でした。





 
平成25年 佐野夏祭り   著者  長滝谷敏雄(野出町若頭会)
  
 今年は早くに梅雨が明けた。祭の日が23,24日の頃もそうであるが、夕立の無かった年は少なかった。2年前は、台風が来ていたと思う。その頃の雨の祭は、私には記憶が濃い。

 本祭り当日。私は、毎年ながら子供会に同行をさせて頂いた。この時から、「ああ祭がスタートしたんだなあ」と思っていた。昔は、正直、撮影目的なところがあった。・・・が、今は、子供達の何気ないしぐさ、無邪気に遊んでいるところ、一生懸命に子供太鼓台を担いでいるところ、・・・こういうところを見るのも私の楽しみになっている。子供それぞれの個性が見受けられた。私が子供の頃は、乗り子をしていたことで、午前中は美容室で化粧をしてもらっていた。午前9時半頃だったと記憶をしている。

 子供達を見ていると、私も子供の時は同じことをしていたのだろうと思う。その時は、寂しさを覚えるひと時である。子供会の方は大変である。1年通じて活動をしている。祭以外にもレクレーション等もある。親御さんには気を遣う重要な役である。大変である。

 祭の裏側、そして、会館を守る人がいてくれるから祭が成り立っていると思う。婦人達が、会館の受付や休憩時間に太鼓台を担いでいる関係者達が食事をする準備もしている。町内の方が軽トラで、小休憩するために飲むジュース・お茶等を積んだ軽トラを走らせている。また、道に落ちている吸い殻も拾っている。当たり前のように思えるが、そういう人達は祭には非常に重要である。「自分らでやれ」と言われて、出来る人はいないと思う。

 町会も、1年通じての重大な役を持った上で、祭の責任を背負っている。一番しんどい役である。
祭礼会議の進行、町会を経験された顧問達の意見を取り入れて会議を進行させる。会議後も各団体(若頭会等)と個別に話をすることもある。試験担ぎ・本祭りについては、本当に気を配られていた。熱中症対策もそうであるし、その他も責任を背負わないといけない重要な責任があったと思う。祭後も会計の仕事もある。きちんと集計を出さないといけない。

 祭1番の責任者として総指揮も大変である。地元ながらの人脈もそうであるし、滑舌、おおらかさ、同級生等、気の知れた仲がいないと出来ない役だと思う。また、全てを見渡さないといけない。総指揮を支える副指揮も、総指揮がいない時、祭の進行をしないといけない重要な役である。

 話を元に戻す。
 コマのついた大人の太鼓台が出発する。私が子供の頃、周りの人達は、子供の太鼓台、大人の太鼓台と呼び分けていた。今年は無かったが、「昨年は、大人の太鼓台の宮入は何時から?」と聞かれたことがある。時代は変わっても、そういうものは佐野には根付いているものである。

 コマのついた大人の太鼓台の先頭に子供達がロープを曳く。子供それぞれの個性、表情が伝わってくる。時代は変われど、町内を周りながら若宮郵便局へ向かう太鼓台は、昔と変わらないところがある。懐かしいなあ。

 太鼓台のパレード。太鼓台の担ぎっぷりは最高であった。昔より良かった。私は、パレード前とパレードの1セットに肩をいれた。地肩は若い頃と変わっていないが、粘りが無くなっていた。昔、私の若い頃、青年団OB(当時、若仲会、若頭会、愛祭会の団体は無かった)の笑い声で、担ぐのは5分で限界ということをよく聞いていた。当時、冗談だと思っていたが、今の齢で担いでみると本当であることを実感した。20分担いでいると息が切れていた。試験担ぎの時、先輩が私の顔を見て、顔が青ざめているように見えたようである。私も5分で限界という人達の仲間入りが出来たようである。

 夜の3町担ぎ合い。私もそうであるが、私達には、女神輿とよさこいのコラボは好評であった。来年も、来年だけでなく、ずっとしてほしいと思った。祭前日は手伝い程度であったが、3町担ぎ合いの会場へ行き、よさこいの音響確認をしに行った。

 女神輿とよさこいのコラボが終わると、3町の担ぎ合いが始まる。担ぎっぷりは昔と同じである。ローテーションは今の方が優れている。だから、太鼓台を一度も落とさなかった。布団の揺れ(提灯の揺れ)が、一層担ぎ合いを盛り上げていたように思える。こういう雰囲気や楽しさは、関係者、並び、その場にいた観客の皆様しか分からない。

 春日神社への宮入。子供会に同行させて頂いた。途中、一度、雨があった。新町子供太鼓台が春日通り商店街に到着して、3町の子供太鼓台が商店街に揃った頃に、また雨が降った。「今年の宮入、大丈夫かなあ。」とその時は思ったものである。商店街で休憩をして、野出町子供太鼓台の宮入。子供達の個性がよく見えた。祭を楽しんでいる姿であった。ゆくゆくは青年団、そして、これからの野出町の祭を支えていく世代である。そう確信した。

 大人の太鼓台の宮入。祭1番のメインである。担ぎっぷりは最高であった。ローテーションはかなりいい。布団屋根はよく揺れていた。乗り子は非常に大きな声が出ていた。言葉が見つからない・・・。その場にいないと分からない肌で伝わる楽しさであった。

 本宮最後の内原前。今年は格別であった。太鼓台を落とす気配がない。ここで太鼓台を落としたら来年まで太鼓台を担げない。この時、皆は、太鼓台を担ぐ楽しさで酔いしれていた。誰かが肩を抜くと、すぐに変わりが肩を入れていた。最後、拍子木を鳴らすまで太鼓台を落とさなかった。昭和63年7月24日。野出町まで太鼓台を担いで帰った頃と同じ勢いであった。

 何故なら、会館へ帰っても、青年団は太鼓台を担いでいたから・・・。





 
 平成26年 野出町太鼓台   著者  長滝谷敏雄(野出町若頭会)

 歳を積み重ねるごとに祭から離れている・・・。今年も祭礼会議に呼んで頂いた。試験担ぎ前、携帯に電話が入る。私から離れていきつつある祭を一気に引き戻してもらった。無茶苦茶嬉しかった。

 試験担ぎ前夜、会館2階で若頭会の面々で用意された食事に箸を突きながら、様々な内輪話で笑いが出ていた。どこの地区でも同じ話だと思う。私は、その後、日付が変わるまで、若頭会の先輩達とある店に行って焼き肉を食べていた。

 試験担ぎ。とにかく楽しかった。一言で言うならこの言葉に尽きると思う。太鼓台を落とさない。拍子木が鳴るまで落とさない。私も太鼓台を担いだ。前の中の3番棒。青年団が担当している方に肩を入れた。私が太鼓台を担ぎながら『アーヨッショイ』の掛け声をかけながら、1セットをフルに太鼓台を担いで、法被が汗でビショビショになった。私は完全にバテていた。歳である。

 青年団の下になる若い衆(年功序列)が、かごにビールやジュースを入れて配っている。私ももらった。嬉しかった。『ありがとう』と一声をかけた。

 歳の若い青年団は、そういうことをして徐々にされる側になる。私は若頭会の下の人間である。私は気の利く人間ではないが、言われればビールを持て行ったりしている。そうして、する側からされる側へなっていく。どこの祭でも同じだと思う。


 試験担ぎの後。会館の2階で若頭会の面々がくつろぐ。内輪話で笑い話が出る。それから、神輿渡御の話も出ていた。どこそこの役割は誰がするか?神輿番となると、前天狗、後天狗、神楽等をされる方が必要になる。天狗は、祭を相当熟知した人しか出来ない役割である。基本、漁師であり、また、漁師と強くパイプを持っている人である。

 特に前天狗。神輿渡御には非常に重要な役目になる。失敗は一切許されず、誰もやりたがらない役である。そういう話が出ていた時に、ぶっ飛んだ話が出てきた。実際は違っていたが、前代未聞の話であった。この話で、若頭会の面々は『ツボ』にハマって、何を言っても笑っていた。ある人が携帯で ぶっ飛んだ話を教えているときに、別のある人が『祝詞奏上』と言って、その言葉で大爆笑になった。携帯の向こう側にも大爆笑が伝わっていたと思う。こういうのは、祭でないと味わえないものである・・・。

 本祭り前夜の前夜祭。料理が用意されていた。1階では、青年団・若仲会。2階では、若頭会・祭愛会・町内会、そして、子供会。それぞれで前夜祭がされていた。皆、料理に箸を突きながら話をして笑い声が出ていた。会館内で、少しの間太鼓台を担いだ。青年団・若仲会の面々に例年通りの勢いがあった。


 今年は野出町が神輿番。宵宮は早朝から祭である。神輿を組立てるわけである。私は邪魔にならないように出来ることをした。

 祭は足し算の考え方である。足し算の考え方を持っている祭は、少子高齢化の中でも発展をしている。私の所持している祭の本には、そういう考え方で発展した祭の例が紹介されていた。引き算の祭は衰退すると掲載されていた。

 子供太鼓台。少子化が謙虚に出ている。会館出発前、子供達が会館周辺で遊んでいる。宵宮は野出町内の周る。私は子供の頃、子供太鼓台についていった記憶があるが、小学生の頃は乗り子をしていた為、幼稚園以下の頃になると思う。今では、子供達全員の撮影をしている。とにかく全員が写るようにしている。それが楽しい。

 大人の太鼓台。今では言わなくなった。私が子供の頃、大人の太鼓台と呼んでいた。昔の会館出発時間は、早くても午前11時半だった。宮一番の時の出発時間(本宮)だったと思う。今では、かなり前倒しされている。春日神社宮入り。今年の私は少し肩を入れた。楽しかった。今年の宮入りは勢いがあった。誰かが肩を抜くとすぐ代わりの人がに肩を入れていた。

 神輿渡御。神社境内で神輿が荒れ狂う。これが見せ所である。前天狗が神輿を先導して、後ろ天狗が神輿の後ろを守る。神楽は御旅所で噛んで周っている。泉佐野漁港の漁船前で春日神社大明神の御魂が入った神輿を差し上げ。大漁祈願である。この1年の大漁を祈願するわけである。沢山の漁船前で祈願した後、各御旅所へ行く。涼しさを覚える時間である。

 野出町内を周り、本町御旅所へ。今年は、午後5時過ぎには本町御旅所へ到着していたが、昔は、午後6時半頃に到着していた。それよりも遅れていた年もあった。神輿渡御が無事に終わった。

 もう20年以上前になるかもしれない。神輿渡御が終わり、春日神社宮出しが午後7時半前になったことが1度ある。日は暮れていて空は徐々に暗くなってきている。今では『コマ』を取り付けて、商店街を抜けて駅前へ向うが、昔は『ヨイヨイヨイ』の掛け声とともに太鼓台を担いで商店街を抜けていく。本町通り商店街(現つばさ通り商店街)を抜けたところで『石山の秋の月~』と唄っていた。昔、神輿番に当たる町は、国道26号線(現 堺阪南線)を渡れなかった。しかし、当時勢いのあった野出町は、一度だけ26号線を渡ったことがあった。その時、初めてやった輪の中いたことが私には嬉しかった。

 担ぎ合い。私は担ぎ合いにも肩を入れた。時代の流れとともに変化しつつあっても、赤々とした提灯の下で担いでいると気持ちがいいものだった。野出町は凄い勢いであった。乗り子は顔を外に向けて、担ぎ手に向かって大きな声を出していた。『一生懸命担げ。太鼓台を絶対に落とすな。』という訴えのようであった。私が乗り子をしていた頃は、そういう訴えをしていた。そうすると、波の揺れのように太鼓台が前に進み後ろに進みしていたものだった。

 本宮最後。駅前商店街を何度も行ききした。昔の頃と同じである。今年は御見物される方が多く、安全のために堺阪南線を山側から海側に渡るのを信号1本遅らせた。そして、UFJ銀行前で『コマ』を外す。太鼓台運行が全体的に遅れ気味であり、野出町も運行時間を遅らせようとしたが、御見物される方に野出町を魅(見)て頂くために定刻で担ぎ始め、駅前商店街を行ったり来たりすることになった。

やってる方も楽しかったが、御見物されていた方も楽しんで頂いたものと思う。これが『祭』である。『祭』やったなあと思うひと時であった。

 最後、駅前商店街から内原へ太鼓台が向かい、最後のメインになる。これが最後である。私も肩を入れた。皆と一体になり『祭』を精一杯楽しんだ。その後も、泣きの1回で、もう一度、内原前で太鼓台を担ぎ、野出町青年団による最後の挨拶を行った。この時点で『今年の祭は終わったなあ』と思う一瞬であった。

私が祭から離れても、野出町は野出町らしい個性を出したエエ祭をしてほしいものである。


 



 
平成27年 祭とは・・・   著者  長滝谷敏雄(野出町若頭会)

  時代は着実に進んでいる。ただ、昔の祭が好きでならない。私には言う権利はないが一度『原点回帰』をしてみるのもいいのではないか・・・と思った。祭参加をしている方々、関係者の年齢層は、少子高齢化もそうであるが若年層の祭離れの方が打撃を与えていると思う。

 昔は今のようにコンビニが無かった。正月はどこの店も閉まっていた。当時は、これっといった娯楽も無く、ハレの日とケの日の区別がきちんと出来ていた。今は・・・というと、ここでは書けないほど娯楽が沢山増えた。その沢山の娯楽の影響で、その神社祭礼の存在が薄くなった気がする。

 神社祭礼は、都会に行くほど廃れている気がする。それは娯楽が多いからである。限界集落では、祭を守ろうとしている姿があるし、都会から離れた地区の祭では祭礼関係者の年齢層が広い。私個人的な解釈ながら、北海道のある祭を見た時は年齢層の広さを感じた。1つの町が一体となって祭を楽しんでいる姿であった。時代に合わせるところがあっても、私が思う『祭の原点』とも言える姿がそこにはあった。

 しかし、よそはよそ、佐野は佐野の祭をすればいいと思うし、各町それぞれでいい特徴を魅せればいいと思う。今年は各町それぞれで個性が出ていた。こういう事を言うと怒られてしまうが、野出町は、時代の波を受けつつも人情、人の繋がりを大切にされているところがある。関係者達は、祖先の血筋を辿るとみんな親戚になってしまうという間柄でもある。

 私だけではないと思うが、景気の波を受け過ぎている。その中で祭に参加できていることは有難いものである。普段の仕事で溜まったストレスを祭で発散させるのも、今の時代では1つの方法なのかもしれない。神社祭礼は、本来は人生生活とは切り離せないものであるし、年に一度必ず祭はやってくる。一年一年が過ぎていくと若い衆の成長が見えてくるし、同時に、私自身が歳をとったことを実感する。それを確認出来る場でもある。

 職の安定はしんどいものである。並々ならぬ努力・・・が当てはまる人もいると思う。今年6月はある市民病院で6日間であるが入院をした。入院というのは・・・こういうものなのかと、私自身が入院をして初めて分かった。

 途中、話が・・・、最初から話が脱線しているが、ある意味で、佐野夏祭りは私にとって1つ1つに節目になっている。年齢を積み重ねるにつれて祭から離れるのは仕方がないことであっても、私は、基本は根っから祭が好きであるようである。その場の雰囲気が好きである。

 今年は、入院で会社にかなり迷惑をかけている為、入院中は特に祭不参加も頭によぎったが、会社の寛大な判断で祭に参加が出来た。埋め合わせではないが、 向き不向きはあれど会社に恩返しをしたいものである。

 また、来年、私は佐野夏祭りでの場に居れたらと思うし、祭を楽しみたいものである。





 
 平成28年 野出町太鼓台  著者  長滝谷敏雄(野出町若頭会)
 
  仕事等の影響はあれど、0歳から野出町太鼓台が中心に私の1年が回っている。今はそう思えてならない。記憶違いかもしれないが、子供太鼓台に触れていた記憶がある。小学生の頃は、野出町太鼓台の乗り子をしていたから、幼稚園の頃の記憶かもしれない。祭りを振り返れるというのも経験からくるものだと思う。昔の会館が懐かしくてならない。子供の頃、会館向かいにある駄菓子屋にいって駄菓子や小学生が扱う学習ノートをよく買ていた。小さいアイスクリーム1個が30円で、カレーせんべい1枚10円だったと思う。第一小学校へ通っていた子供の頃、鉄筋校舎から海を眺めていたものである。木造校舎も懐かしいものである。野出町の桟橋では釣りをされている方が結構いた。タコ石の中で火を起こして貝を焼いて食べて、こっぴどく怒られた記憶がある。野出町の砂浜でよく海水浴や凧揚げ、砂遊びをしたものである。8月も終わりに近くなると、海の方から涼しい風が吹いてきたものである。春日神社の公園へセミもよく採りに行っていたものである。懐かしくてしかたがない。

 過去の事だから、記憶違いも出てくるが大目に見てほしい。私が中学生の頃、2番棒の中が私の指定席のようなものであった。担ぐのが楽しくて肩を抜くことが少なかった。昭和63年7月24日の最初で最後の出来事は一生の宝物である。この楽しさを身を持って知っているから祭に参加しているんだろうと思う。しかし、年齢とともに祭りが離れていくのも自然の流れであり、年齢を積み重ねるにつれて役についていかないといけない現実がある。役というのは花形というより責任の意味合いが非常に強いものである。もちろん、私が役につくような器を持っていないのは関係者各位の皆様が知っていることである。

 人情そのものだと思っている。一度、野出町の副指揮の役に就かせて頂いたことある。こんな重要な役、一生、記憶として残るものである。当時、副指揮のタスキは黄色のタスキだけであったことは覚えている。若い頃の私だったら調子に乗っているはずだから、どこかで掲載していてもおかしくないが掲載が見つからない・・・。当時(今もそうであるが)、私が実際にその役について何も出来なくて・・・、何も出来なかったから鮮明に記憶に残っているし、今では非常に貴重な経験となっている。今年は、若頭会の班長をさせて頂いている。連絡1つまわすにも間違ってはいけないから、私自身、班長自体どうするのか?よく分からないから、幹事に聞くこともある。そうして貴重な経験を積んでいくんだろうと思うし、社会生活をする上で、仕事をする上でもこういう術は必ず役に立つものである。

 社会生活・仕事では実力社会であり、年功序列は一切関係ない。しかし、私は仕事上では年功序列の考え方を大事にしている。これは、野出町の祭りで学んだことであるし教えて頂いたことである。

 今年の祭は、昨年より、おっさん、年配の方々より若い衆が前に出ていたように思う。若い衆が中心になる祭には活気が出てくるものである。本宮の夜、春日神社の夜店が賑わっているのには驚いた。閑散としていると思ったからである。私が生れる前の事だから詳しくは知らないが、佐野の祭に往年の昔のような活気、原点回帰に向かっているように今は思えてならない。

 祭の休憩中は、どこの地区も同じだと思う。笑い話が絶えなかった。これが祭りであるし、ハレの日であるし、社会生活、人生を歩んでいく上でいい経験となるものである。

 祭りってやっぱりいいなあ・・・。 





 
 平成29年 やっぱり佐野夏祭り  著者  長滝谷敏雄(野出町若頭会)
 
  年齢を積み重ねる度に、だんだん祭に対する気持ちが離れていっている。これは自然の流れであると思うし、同級生また近い年代の方が年齢を積み重ねると祭に参加しなくなっていることを実感している人は多いと思う。様々な理由がある中で、世代交代が進んでいること、体力的なこと、そして、仕事を優先して現実を見据えるようになったことも理由にあると思う。それはそれで正しいと思う。

 何事も引き際が大事であると思う。私の脳裏にはそういう考え方がある。若い頃ほどでもないが、今もよその祭の雰囲気・祭の空気を楽しむことがある。本当に楽しい。だだ、休憩時、地域地区によって違うが、地べた、もしくはブルーシートを敷いた状態で皆が楽しく食事を楽しんでいたり、年配の役員が円を描いて酒盛りをして伊勢音頭を唄っていたりして、盛り上がっているところを見るといつも虚しくなるものである。当たり前であるが、よその地域地区では私はよそもんになるから輪の中に入れるわけがない。その地域地区で育って来たわけではないから、その土地での下積みの経験からくる話が出来るわけがない。

 ある祭では、「ひっかわせ」で盛り上がっている。「ひっかわせ」というとキツネのお面を思い出す。神社祭礼ではないが、雪祭りも楽しかった。雪上ステージでは有名芸能人を目の当たりにした。当時はMCをされていて、いつもテレビで見ていたから嬉しかった。ある番組で出ている歌手の歌声が美しく魅了されてしまった。途中、バイオリンを弾いていたが、バイオリンの音色も美しかった。

 それぞれの地域地区、様々な伝統があり、祭を楽しみ、そして、伝統ある祭を世代交代を通じて次世代に伝えている。時には、時代に合わせて変わりつつある祭もある。無くなっていく祭も現実にある。
   
 最後に辿り着くところは佐野夏祭りになる。会館・祭の休憩中、皆の輪の中に入いることが出来る。時代に合わせて変わっていくところがあり、ところどころ原点回帰しているところもある。佐野夏祭りのいい所だと思う。

 今年の祭は、野出町 副指揮に御拝命いただいた。タスキが非常に重たかった。年齢を積み重ねていくと様々な役職についていかないといけない。リアルな話を聞いていると私は冷汗をかいていた。重要役職は誰も好き好んでやりたがらない。どこの地域地区も同じであると思う。花形ではあるが、責任が非常に重い。年齢を積み重ねると、誰でも重要役職に就かないといけないことを覚悟しておかないといけない。

 若い頃は無かった。何が無かったかというと、仕事のことである。歳をとると、仕事のことが常に頭の隅にあり、生活を守ることを第一にしていることを認識した。仕事をしないと、食べていく為のお金を稼いでいかないと生きていけない。

 祭は楽しかった。何回か太鼓台を担いだ。ヤーヤーヤーはキツかったが、御覧になられている皆様は楽しんで見ていたのかなあと思う。「しんどい時こそヤーヤーヤ」、「終わりと思ったらヤーヤーヤ」、往年の担ぎっぷり、原点回帰に近づいた担ぎっぷりであった。

 昔の青年団vs青年団OBの担ぎ勝負を思い出す。担ぎあげて、すぐに「ヤーヤーヤ」で太鼓台が大きく揺れ、その後もずっと青年団、青年団OB双方が「ヤーヤーヤー」を仕掛けて、太鼓台がずっと揺れ続けていた。

 宵宮夜の太鼓台のライトアップ。見ていて美しかった。本宮夜の提灯。昔ながらの情緒を感じて別の美しさがあった。だんだん祭から確実に気持ちが離れていっても、祭の日には法被を着てその場所に居るし、祭が終わると寂しさを覚える。私はやっぱり佐野夏祭りが好きなんだなあ・・・と思い、そして認識できた期間であった。





  
平成30年 祭考  著者  長滝谷敏雄(野出町若頭会)

 祭の引き際と考えているところが頭の隅にあった。祭は楽しい。しかし、若い頃と違い現実を見ているところがあり、私の中で物足りなさが増していた。親から子。先輩から後輩、そして、次世代へ・・・、時代に合わせて祭が受け継がれていく。祭礼組織では縦の上下関係があり、その中で経験を積み重ねていくと、歳をとった時に若い頃の経験が活きてくるし、あり得ないこともあるから、それが思い出として笑い話となっていることもある。

 祭に参加することは、誰でも必ず負担になってくる。年齢を積み重ねれば、何かしらの役職を持つことになるし、それ以上の楽しさがあるから祭に参加をする。年に1度の春日神社祭礼 佐野夏祭りは祭礼関係者として主人公となれる場である。今年も副指揮に御拝命頂いた。私自身、何が出来る・・・というものは無く、偶然、会社の休日のタイミングが良く、祭の翌日、休みが取れ、少しではあるが祭の片づけに出ることが出来た。

 祭礼会議に呼んで頂けるのは嬉しい限りである。必要とされているか・・・は別にして、私を人数に入れて頂いていることが嬉しかった。遠ざかっていた祭の気持ちが戻った。

 今年の梅雨明けは早く猛暑であり、太鼓台を担ぐ時間が短縮された。危険な暑さだったから仕方がない。よく担いだ方である。ベラX5回はタコ(大房)が良く揺れていて良かった。宵宮の夕方、駅前通り・新地通り商店街の十字交差点で休憩時、夕陽の光が差し込んでいる飲み物を載せている軽トラを見ていた。こういう光景は私にはしっくりきていて祭やってるんだなあ・・・と思い、過去の記憶と重ねていた。私が乗り子をしていた頃である。昔、駅前通り・新地通り商店街の十字交差点で、3町の太鼓台がよく入替えをしていた。昔は、泉佐野駅前が祭のメインで、神輿番に当たる町は、本宮夜、旧26号線より上には上がれなかった。内原前は今と変わらず、もう1つのメインであった。三和銀行から内原前まで担いで行ったり来たりしていた記憶が、この後日談を書いている今、思い浮かんできた。乗り子をしていた頃。波のように太鼓台が揺れていく感覚が気持ちよかった。

 昔の宮入開始時間は午後1時30分。私が乗り子をしていた頃、神輿番に当たった年の野出町会館の出発時間が午前11時30分だった。大体の出発時間は、正午であったと記憶している。

 神輿が渡御して春日神社へ帰ってきた時には午後7時になっていて、太鼓台が春日神社を出たのは午後7時15分頃だったと記憶している。紺の法被を着ていた頃の記憶である。私にとって最初で最後である。神輿が野出浜の海の中に入って担いでいた。関西空港の関係でその海も埋め立てられた。

 日々、生活を守っていく上で誰しも悩みを持っていて、寄合い、飲み会等で誰でも悩みを持っていることを再確認をして、沢山関係者がいると、職業は職人系が多く、実際にされている人の話を聞いているだけでも為になった。しかし、こういう機会をうまく活用出来ないのは私の損な性格である。経験から出てくる話を聞いていると羨ましくてならないし、本当は私もしなければいけない年代になっており、情けなくもなるものである。

 よその祭は見ていて楽しい。しかし、佐野は別として考えることにしている。参加している祭より、見ている祭の方が楽しいというのはあり得ない話である。

 昨年までは、祭が終わると気持ちの切替えが出来ていた。非日常的な時間を楽しんでいるところがあった。しかし、今年は祭の気持ちが続いたままである。今まで、私の中で別の軸であった祭が、今では同じ軸となり、人生の一部としてなってきているのかもしれない。何も出来ないながらも2年連続で役職に御拝命頂いたことも影響していると思う。0歳から春日神社祭礼 佐野夏祭りをされている環境で育った影響もあると思う。。

 祭であるから、毎年 様々なことはあるが、それが反省となり、経験となり、笑い話となり、世代交代も含め、時代に合わせて変わっていく祭の肥やしになればいいと思う。

 祭より、日々仕事をして生活を守っていくことの方が大事であることは当たり前であるが、佐野夏祭りの場合は祭を優先させる。その理由は地元の祭だから・・・。


 



  
 令和元年  想い出の糸車 著者 長滝谷 敏雄(野出町若頭会) 
 
生活を守っていくことが一番になった。
予想外の様々なこともある。
昨年9月の台風21号は一生忘れることが無いだろう。
危険な暴風であった。

仕事をしてお金を稼いで生活を守っていく。
一番単純で一番辛く、一番しんどい。

一年はあっという間であった。


祭が近づいてきた。
若い頃であれば、嬉しさ、気持ちが高ぶっていたが、
歳を積み重ねる度に無くなっていくことを実感した。

祭の役職 副指揮に御拝命頂いた。
私の出来ることは限られているが、
後片付けの為に事前に有給をとっていた。


祭は、世代交代を感じつつ楽しんだ。
比較としてはいけないのであるが、
昔と違い社会情勢が見え隠れしているように思えた。

低賃金時代であるから、範囲内で無礼講は必要に思える。
自分の内に溜め込んでおくと良くない。
仕事の追われているのか、疲れが残ったまま祭に参加したと思える関係者もいた。
今の時代背景、景気を色濃く伺うことが出来た。
その中の祭だったように思うし、年々、もっと色濃くなっていく気がする。


試験担ぎは涼しかった。
よく担いでいた。

今年の宵宮は雨の祭りであった。
久々であったが、大雨までいかず良かったものである。
地面が濡れると滑るから危ない・・・という声もあったようである。
宵宮は早めに終わった。


本宮は晴れだったが昨年の危険な暑さではなかった。
宮入りが終わった後の まいまい は きれいに回っていた。美しかった。

かきあい 終盤だったと思う。終了までずっと太鼓台に肩を入れていた。
中の3番棒である。担いでいると皆と同じ一体感を感じた。
普段なら要らないことを考えながら・・・というのもあるが、
純粋に太鼓台を担ぐことしか考えてなかった。
純粋に楽しかった。

本宮夜、駅前通り商店街で太鼓台を担ぐのは、
佐野夏祭りの一つの見所になってきていることを実感した。
昨年より人が多く、賑わっていた。

昭和63年7月24日の出来事とダブっていた。
今年はそれぐらいの勢いがあった。

純粋に祭は楽しかった。
祭から気持ちが離れていっている現実があっても、
それが純粋な気持ちである。
今の気持ちをこれからも大切にしていきたいと思う。

7月20日、若頭会の楽策。
8月3日、町内会のご苦労さん会。
写真展・・・というのは私には無理であるが、
7月20日だけでなく、8月3日にもL版プリントの写真ファイルを持っていく。

私の出来ることは限られている。
しかし、少しは皆さんと共有出来ればといいなあ・・・と思う。

今年の祭も、人が1度しか書くことが出来ない人生という小説の1ページに記すことが出来た。
純粋に祭は楽しい・・・という一言を加えて。





 令和4年  音のない世界  著者 長滝谷 敏雄(野出町若頭会)
 祭が終わって約2週間。非日常から日常に戻っているが祭の余韻を楽しんでいる。つい最近まで、新型コロナの猛威。緊急事態宣言。まん延防止重点措置。閉塞感が漂う中、ロクなことが無かった。

 何年も祭を離れていると、祭の引き際を考えてしまう。これを機として祭の参加を辞めようと思っている人も多いのではないか・・・と考えてしまった。ウクライナ情勢や円安による物価高は面食らった。給料は上がらないから、生活は苦しくなっていく。ニュースを見ると、くだらない事件が多い。呆れるというより驚くばかりである。その知恵を別のところで使えんのか・・・と思うこともあった。

 今年の祭は2町で執り行うことに決まった。来年は4町揃って祭を執り行うと確信している。祭参加に対して、人それぞれ様々な事情は持っている。祭り前。自分は野出町若頭会のTシャツを着て祭に参加したいと思いつつ、オミクロン株感染爆発している時期であり、クラスター感染が頭によぎり正直、祭参加を迷った。その時、昭和63年7月24日。人生、最初で最後。野出町太鼓台倉庫まで太鼓台を担いで帰った鮮明な記憶・思い出が溢れ出した。祭に参加することが確定した瞬間であった。迷う必要は無かった。

 時代の変化は早く、昔とは違い、縦社会が無くなりつつある。中途採用で入社した場合、年下の上司も普通にある。横の繋がりも無くなりつつあり、昔のような温かい・人情のある社会ではなく、孤独を生む社会となった。祭も時代の変化を大きく受けつつも、まだ、昔のような雰囲気も残っている。年に一度の祭は年に一度の同窓会のようなところもある。同窓会と表現すると諸先輩の方々を怒らしてしまうかも知れないが、自分はそう思っている。

 今年はいつもと違う祭の迎え方となった。祭参加者は少なかった。担ぎ手の交代要員は誰もいない。太鼓台は上がらない。そんな中、宮入は早く鳥居をくぐったが、太鼓台は1度も落とさなかった。本宮夜の かきあい は、今年最初で最後の差し上げ。4つ角一角は、おっさん部隊。御見物されている子供達から『野出町頑張れ』の声援、拍手には感動するところがあった。祭っていいなあ・・・と思った瞬間でもあった。

 今年の祭は、誰もが頑張った感の強かった祭。やり切った感の強かった祭。達成感の高かった祭。充実した祭。大成功した祭。余韻として残り続ける祭。記憶・思い出として鮮明に残り続ける祭のように思えた。今年の祭は『人生で一番最高で楽しい祭』であった。
 来年4町揃った祭ではもっといい祭になるのは間違いない。

 今でも、太鼓の『音のない世界』でも、自分の心の中で太鼓の音が聞こえ続けている・・・。




 
  令和5年  地元の祭礼  著者 長滝谷 敏雄(野出町若頭会)
  私見であることを御容赦頂きたい。

 人生の時間は限られている。若い頃、あと何回 祭に参加できるのかと考えたこともあった。他所の祭もよく見に行った。他所の祭は楽しい。ただ、他所の祭関係者の輪の中に入ることが出来ない虚しさ、疎外感を感じることが多々あった。昨年の祭は特別である。新型コロナ流行中で3年振りの祭で、担ぎ手は少なく、やりきった感、達成感のあった祭は『人生で最高の祭り』であったことは覆すことは出来ない。

 昨年からずっと物価高で苦しみ、昇給は年1回であるが物価は毎月と言っていいほど何かしら値上がりしている。考え方は現実思考に偏ってしまった。節約を繰り返す中、何とか高知県へ国内旅行は出来たが、現地で太鼓台を見るや心が躍りテンションが上がった。もういいかなあ・・・という自分もいたが、祭の灯は消えてなかった。太鼓台を見たからだと思う。今、ふと思った。祭の灯が消えれば、布団締め(私の一生の宝物)に申し訳ないと思った。

 9月なのに夏本番の暑さ。猛暑ではないが、私が子供の頃の夏と同じ暑さであった。その時点で昔の懐かしさを感じていた。若宮町会館2Fでオムライスを頂き、化粧直しをして頂いた頃を思い出すものである。

 時代の流れはどうすることも出来ないが、祭が昔の雰囲気に戻っているところがあった。原点回帰しているところがあった。そういう祭は久しぶりであった。本宮、春日神社宮出後、太鼓台を担いだまま商店街を抜け、休憩を挟みつつ駅前まで担いでいった。商店街のアーケードでは石山の秋の月・・・の唄が大合唱になっていた。私の若い頃の記憶と重なってちょっと感動していた。祭やってるなあ・・・の雰囲気であった。

 本宮、4年振りの まいまい。宵宮、泉佐野駅で御観覧になられた方から、まいまい について聞かれた。まいまい を見たいと言っておられていた。初めて佐野の祭を見ると言っておられていて、佐野も少しは知られるようになったのかなあ・・・と思った。幾分、話すのが苦手であるが、伝わっていたようで嬉しかった。

 パレード、宮入、かきあいが祭のメインであるが、今年はもう1つメインがあった。本宮最後、駅前通り商店街・内原前で青年団vs青年団OB(若仲会、若頭会、祭愛会の面々)。前は青年団、後は青年団OB。担ぎ始めから双方とも勢いは凄かった。太鼓台は波に乗ってるように揺れていた。私が乗り子をしていた頃と重なっていた。乗り子たちは気持ちよく、楽しかったに違いない。双方とも勝負を譲ろうとはしない。担ぎ始めて30分を過ぎても双方とも勢いがあった。私も何度か太鼓台に肩を入れて楽しんだ。担ぎ始めて40分を過ぎた。まだ、双方とも勢いがあった。盛り上がり方が凄かった。こんな祭はかなり久しぶりであった。

 私は何も出来ないが、今年の祭は副指揮の役をさせて頂いた。今は祭の余韻を楽しんでいるが、気持ちを切替える暇もなく来年の祭を迎えている気がしてならない。

 今年の祭は昔の懐かしさを感じる楽しい祭であった。




 
  令和6年 非日常のひと時 著者 長滝谷 敏雄(野出町若頭会)
 4月は2806品目、5月は417品目の食品関連がまた値上げ。実質賃金の値下げはずっと続き、生活は苦しくなる一方であり、誰もが苛立ちが募る世の中となった。今までにないような事件をニュースでよく拝見し、警官に職質されている人、そういった場面を見かけるようになった。金銭面が直接的な原因、間接的、遠因となっているのは確実のように思える。

 PCやスマホの普及率は高い。自分はどちらもは出来ず、スマホは持たず、PC環境を維持する方を取った。それでも、PCパーツの価格も円安の影響をかなり受けて高騰している。今思い出した。電気・ガスの補助金制度は5月で終了。6月から所得税・住民税の減税はあるが一時的であり、6月以降の食品関連やその他値上げで相殺されてしまうのは目に見えて分かるものである。

 節約と言えども極度な節約をすることも多くなってきている。しかし、47都道府県全てに足跡はつけたいものである。人生一回切りである。今しか出来ないこともあり、後悔をしたくないものである。

 政治資金規制法案、円安対策、補欠選挙では自民党は全敗をして政治は荒れ、大変な世の中となった。

 そんな世の中での祭であった。平日は現実に捉われ仕事をしているが、試験担ぎ・本祭は非日常的なひと時であった。祭であるから誰しも負担はあるが、それを上回る楽しさがある。祭礼関係者は太鼓台の担ぎ手だけではない。会館を守っている方々も祭礼関係者である。会館を守っている方々がおられるから祭礼は成り立っているところもあることも忘れてはいけない。

 時代の変化は早い。昔の青空市場に置かれていたリヤカーで遊んでいた時代ではない。ザル一杯のシャコを300円や500円で売られていた時代は懐かしくてならない。駄菓子屋巡りをしていた頃が懐かしくてならない。後味がピリッとくる わんぱくラーメンの味が忘れられない。30円のアイスクリームもあった。野出町の海で海水浴をしていた頃が懐かしくてならない。新町の公園のジャングルジムやブランコでよく遊んだ思い出、春日町の公園で蝉取りをした思い出、春日神社への初詣。子供会の秋のレクレーションはミカン狩りであった。夏には阪神パークへ行った記憶もあった。小学生の町別ソフトボールにも参加したこともあった。地蔵盆や盆踊り。世代間で価値観は違うと思うが、昔の思い出も大事にしている。

 ハレの日、ケの日。昔はハッキリしていた。第一小学校へ通学していた小学生の頃、太鼓台の乗り子をさせて頂いたことを思い出す。波の上に乗っているような感覚、太鼓台はよく落としたが、同じようによく担いでいた。昔は荒々しかった。エライヤッチャ、エライヤッチャの掛け声、太鼓台は大きく揺れていて、片手で四本柱を掴みながら唄っていたこともあった。

 子供太鼓台を初めて担いだのは、野出町若頭会へ入ってからであった。子供太鼓台が組み上がってから少しの間担いだのが最初であった。

 1年歳を積み重ねれば、1年多く祭の思い出・経験が増える。この年はこういう祭であったという記憶が後々に思い出となって復活するものである。

 今年から祭は5月。昨年の祭は9月。前回の祭は、ついこの前に執り行われた感覚もあった。今年の祭は今までとは違った。聞いたことしか分からないが、様々な事情があり、祭の運行予定は時間厳守であった。絶対に守る必要があった。御覧になられる方々、観覧される方々への安全上の取り決めも絶対であった。来年以降からの祭に大きく影響が出るから守って頂かないといけなかった。御存知の方も多いと思う。私は話ししか聞いていないから、どこまで本当かは分からない。1つは御覧になられた方の行き過ぎた行為がトラブルに発展したんだと思う。不適切な掲載であることは自覚しているが、あえて戒めとして掲載させて頂くことにした。自分への戒めでもある。

 今年の祭は、ある意味、初めてが多い祭となった。今年は、試験担ぎ、パレード、かきあい、宮入、そして最後、太鼓台を担いだ。青年団の方で太鼓台を担いでいた。若頭会の方で担がなかったから、当然のように、後でツッコミが入った。太鼓台を担いでいるのを外から見ていると、私が乗り子をさせて頂いた頃のように『アーヨッショイ』の相槌のような掛け声が無かった。世代間の違いは大きいと思う。昔は、青年団や青年団OBが『アーヨッショイ』の掛け声から勢いづき、太鼓台は波に乗っかってるような揺れ方をしていた貴重な経験を乗り子の時にさせて頂いたことを今でも体で覚えている。無茶苦茶気持ちが良かったものであった。私の場合、今でも太鼓台を担ぐ時、『アーヨッショイ』の掛け声をかけるようにしている。そうすると、一緒に『アーヨッショイ』と掛け声をかけてくれる青年団も居てくれて、ちょっぴり嬉しい気分になり、先代の太鼓台とは違い重たくなってしんどいが、『アーヨッショイ』の掛け声が太鼓台を勢いづくキッカケとなれば、担ぎ手だけでなく、乗り子も、御覧になられる方々も一緒に勢いづくように思えてならない。いや、昔は一体となって勢いづいてた前例があった。

 昔からであるが、祭の日は、夕立、通り雨がある年もある。今年の本宮ようなずっと雨が降り続いた祭は悔いの残る祭となったが、昔は、こういう祭もあった・・・といういい思い出になればと思う。お披露目式もいい思い出である。

 今年も祭の役職 副指揮をさせて頂いた。タスキの重みを感じていた。正直に書く。私の出来ることはあまり無いが、会館のシート張りや祭の後片づけに参加をさせて頂いた。祭の期間に拘らず、お呼び頂いければ、仕事でない限り、会館へ行きたいと思う。

 さあ。非日常的から日常的な生活か。仕事か。嫌やなあ。